松茸 (下)先月は、松茸の出荷量について記したが、香(こう)茸の採取量も相当なものであった。ラッパ状で茶褐色のきのこで、軸の部分をススキの茎で通したものを、50連60連と竿に架かる情景は秋の風物詩でもあった。乾燥された香茸は、炊き込みご飯や黒豆との煮付けに重宝された。昭和25年頃になると松茸の取引値が下落し、目方売りでは採算が合わなくなったため、松茸狩り客を山に誘致して、入山料収入に活路を求める業者が増えた。戦争の傷あとも癒え、自然の中での開放感を求める都会人のニーズにも合って、企画は大当たりであった。入山したお客さんは、松茸探しをしたあと、すき焼きの鍋を車座に囲んで、すき焼きと松茸飯に舌鼓を打った。土産には、ひげ駕籠に詰めた松茸が用意されていた。当時としては贅沢な部類に入る遊びで、家族連れや観光バスで乗り付けた団体客が、あちこちの山で賑わいをみせた。しかし、そうしたブームも昭和40年代になると、肝心の松茸がほとんど生えなくなったのと、社会情勢の変化で次第に下火になった。松茸が生えなくなった原因は、全国的な傾向であることから、排気ガスの影響ではないかといわれている。また、松喰い虫による被害で赤松が減少したのと、燃料としての雑木の下刈りをしなくなって、生える環境でなくなったという説もある。松茸山の山明け(開放)の日は、11月3日に決まっていた。(現在は11月末)名塩の区民たちは、取り残しの松茸を探しに山に入って「さがしもん」を楽しんだ。名塩探史会