第三二篇 名塩小学校(戦時中)

名塩小学校(戦時中)戦争が勃発した昭和16年、尋常高等小学校は国民学校へと呼称が改められた。戦禍を逃れるため都会から疎開してきた児童が増えて、教室は満杯状態になった。英語は敵国語であるため使用を禁止され、すべて日本語に置き換えられた。国家総動員令が布告され、勤労奉仕という名目で課外作業が増え、授業を受ける時間は極端に少なくなった。道路愛護日が毎月一回設けられて、高学年の男子は道路の補修や溝さらえをした。東久保の生野道あたりまで炭焼きの手伝いに行き、帰りには体力に応じて薪を背負って持ち帰り石炭の代わりに使用した。運動場を耕してさつま芋畑にし、植え付けや水やりなど食料増産に励んだ。山羊、豚、鶏、兎などの飼育も当番制であった。おそらく教材費が足りなかったからであろう、いろんな作業に従事した。鎌を使った道具で筆の軸作りや、衣服の原材料になる植物の採取。校内農園で収穫した農作物や、手工の時間に作った塵取りや竹箒を訪問販売するなど、先生と児童が一丸となり献身した。.そのような状況の中でも、6年生になると伊勢神宮参詣の修学旅行が実施された。有馬郡内の学校が合同で臨時列車を仕立てたようで、時期は6月ごろと記憶している。やがて終戦となったが、家庭の衛生状態が悪く、頭や身体に虱をわかしている児童が少なくなかった。その駆除対策として、全員一斉にDDTという白い薬剤を頭や衣服にふり掛けられた。随分乱暴な処置であるが、当時は特に問題にはならなかった。名塩探史会