古書にみる名塩紙文献によると、名塩紙がはじめて世に紹介されたのは正保2年(1645)徳川幕府三代将軍徳川家光の頃である。諸国の物産を著した「毛吹草」に名塩鳥の子とある。さらに承応4年(1655)出版の「摂州名所記」にも「名塩鳥の子紙、昔よりすき出す所也」と記されている。したがって江戸初期の頃には、すでに名塩紙が存在していたのである。文中の鳥の子というのは、雁皮を原料にした紙の色が鳥の卵に似ているところからこの名がついたという。はじめて泥入りの紙に触れたのは、元禄14年(1701)の「摂陽群談」で、「同所にあり此土を設け鳥卵紙に漉交へ美を能す卵色をもって鳥の子と称す」としている。そして、安永6年(1777)の「新撰紙鑑」には「尼子という泥土を和て造る」とある。このことから元禄時代にはすでに泥を入れることを考案されていたといえる。宝永8年貝原益軒著「有馬温泉記」にも、「近里名塩といふ所より出るうすやう中葉間にあい染鳥の子もあり。紙やはらかにして越前鳥の子にはおとる。されどもよき紙多し」とある。このような資料のほかに、旧塩瀬村役場が紙漉原料として放出した古紙の中から、取扱者の機転で残されたものに「鳥の子紙漉船家譜改帳」がある。天明年間から明治にいたる10数冊で、漉き家の名前と船数を記したものであるが、船数の総数は一貫して107である。いまでいう生産調整であろうか、それとも徴税対策であろうか。興味が湧くところである。
名塩探史会