第三五篇 紙屋の営み

紙屋の営み名塩紙の生産は、企業形態を採る大店(おおだな)と個人経営とに分かれていた。大店は数軒あったようで、2~5艘の漉き船を備え、漉き子(紙漉き職人)と紙刷きや、漉き種(すきだね)拵えなどに従事する男衆(おとこし)や女衆(おなごし)を奉公人として雇っていた。紙屋の朝は早かった。御坊の大鐘が鳴る5時には、水車小屋から雁皮を砕く唐臼の音が聞こえた。水車は、精米専用のところも含めて数箇所あった。取水は、名塩川にみられる段差のある箇所からで、井堰と導水溝はその名残である。給金は、盆と暮れの節季仕舞いに、半年勘定で支払われるのが常であった。前借りも利いたし、店の払いも節季払いという慣わしなので、生活には支障なかったようである。紙屋の大店は、漉き子や奉公人を大事にした。盆暮れをはじめ、春と秋の彼岸、魚島の時期(5月ごろ)12月13日の事始めといった区切り目には、鯛ソウメン,とろろ汁、すき焼きなど、その季節に合った食事でもてなし、おみやげに、メリヤスの肌着や足袋、下駄などを与えて優遇した。待遇が悪いと、熟練の漉き子が別の大店に鞍がえすることもあったという。漉き船の数は、九分九厘個人の紙屋であった。簾や桁を洗う溜め池があった屋敷は、すべて紙漉きを生業にしていた。大店の下請けか、さもなくば、大店に出入りの仲買人を通じて取引していた。粗悪な紙は買い取って貰えず、必然的に淘汰されされる運命を辿ったようである。名塩探史会