第四二篇 弓場才三郎

弓場才三郎安政元年4月,弓場為政の次男として生まれた。慶応義塾の創設者、福沢諭吉が名塩を訪れたのを機に慶応義塾に入学し勉学に励んだ。卒業して帰郷、家業の紙漉き業を継いでいたが、明治20年、塩瀬村役場の村長代理兼助役に就任した。当時、約1700町歩に及ぶ名塩区有林は、村人達による樹木の乱伐で荒廃する一方であった。明治23年、その事を憂慮していた区有林管理者、才三郎は、村100年の大計のため、区有林内における松の伐採を全面的に禁止した。また山林の保全と併せて植林も行いその育成に努めると趣旨説明をしてその啓蒙につとめる一方、弓場家所有の山林を村民に開放もした。これに対し個人分割を主張して、猛烈な反対運動が起った。筵旗を立て決起大会を開くなど、村始まって以来の大騒動になった。深夜になって弓場の家屋に投石する者も出た。才三郎は、そうした反対に屈することなく、地区の将来のため区有林を存続すべきだと説得して回った。この時、自分の意思を兄、七九郎に送った手紙の一節に「名塩の山林を護り植林を進めることは、子孫の心に木を植えることに相成候」と。この一文によっても彼の区有林保全への熱意がうかがい知ることが出来る。このように愛郷心に燃える才三郎ではあったが、病には勝てず、明治32年6月、45歳の若さでこの世を去った。彼の意思によって残されてきた区有林は、今日の名塩財産区の基盤となった。その徳を称える頌徳碑は、名塩小学校の一隅に建てられている。名塩探史会