赤松満政嘉吉元年(1441)室町幕府六代将軍足利義教が、赤松満祐の手によって暗殺された。世にいう嘉吉の乱である。義教に仕えていた赤松満政は、山名持豊を大将とする幕府の征討軍に参戦、その功により、播磨東三郡(明石、加古、印南)を与えられた。征討軍大将の山名持豊も播磨国守護職に任じられたが、播磨全域支配の野望捨てられず、幕府に強要し満政の所領を取りあげてしまったのである。怒った満政は山名に戦いを挑むが、幕府はこれを謀反とみなし、山名に討伐を命じる。満政は居城の三草山城を奪われ進退に窮し従兄弟でもある有馬の地頭、有馬持家に救いを求めた。同情した持家は援軍の兵を挙げたが、幕府の討っ手細川勝元に惨敗。このままでは有馬家自身も謀反の汚名を着せられて危ないとみた持家は、窮余の策として満政を討ち、幕府に挙兵の罪を詫びようとして急に刃を返して満政方を襲った。持家方の寝返りに追い詰められた満政は、ひたすら有馬街道を南に逃げのびたが、赤松所縁の地である木の元山中で一族郎党124人が悲憤の自害を遂げた。のちに持家は、赤松主従の菩提を弔うためにここに寺を建立した。十一面観音を祀り地蔵尊を併祀していたが、天正年間(1573~93)に火災が発生、地蔵尊のみが一部を焼いて持ち出された。火伏せ地蔵といわれる所以である。また供養のための五輪塔が数多く存在したが、大規模な土砂崩れで埋没したという。朝日さす二葉うつぎの木の元に 黄金花さく慈悲のおすがた名塩探史会