第五五篇 伊藤慎蔵

伊藤慎蔵文政八年(1825)、長門(山口県萩市)の貧しい地方医師、伊藤宗寿の長男として生れた。適塾の中でも極端な貧乏書生で、生来磊落なる気質に加え、酒を嗜み、斗酒をあえて辞さず、よく弁じよく談じ、放胆果敢なる所があったと伝えられる。文久二年(1862)病弱な妻の養生を兼ねて名塩に居を移したのを機に、村役の人たちに請われて伊藤塾を開いた。緒方洪庵夫人八重の生家である億川家の一室を借りて始められた。開設当初は、経済的に余裕が無かったようで、弓場五郎兵衛家当主、為政よりしばしば米の融通を受けていたようで、それを物語る書面が残されている。塾での学科内容は、大坂適塾の教科に準じたオランダ医学を中心としたものであったといわれている。近郷はもとより、丹波や美濃の方からも門を叩く者があり、1室では足りない状況であったらしい。彼はまた、塾生たちを指導するかたわら、自らも勉学に励み、安政四年(1857)に航海技術書の「颶風新話」(ぐふうしんわ)を、慶応三年(1867)には適塾で同輩であった弓場五郎兵衛と共に、西洋の数学書「筆算提要」(ひっさんていよう)を著している。彼は、明治二年に塾を閉めたあと、大坂洋学所、さらに東京の工学寮の教授として勤務していたが、明治十三年脳溢血のため55才の若さで亡くなっている。JA名塩支店前には、蘭学塾跡をとどめる碑が建てられており、前の道路は「蘭学通り」と名づけられている。名塩探史会