第七篇 祭り下

祭り (下)

ダンジリの曳き回しには、終日現国道を使用していたが、車の通行量が多くなった現今は、蘭学通りのみに規制されている。規制といえばブレーキの装着も。従来は人の力だけに頼っていたので危険が付きまとっていた。曳き手の装束は、メリヤスのシャツに白いねるの腰まきを巻き、足元は地下足袋であった。昭和に入ると普段着に「しごき」でたすき掛けをし、鉢巻をするようになった。しごきや鉢巻は、各町独自の色を用いた。町名入りの法被を着用するようになったのは、昭和30年頃からである。飾りつけは、各ダンジリが競って色テープやモールを屋根まわりに張りめぐらせた。花(祝儀)は数多くなかったので、長尺紙に金額や氏名を記して前面に張り出した。日章旗と軍艦旗を交叉させたりした時期もあった。屋根に付ける御幣は、1枚1枚丁寧に捌いてふっくらとした量感を出した。現在とは逆である宮入りは暗くなりきらないうちから始まった。1度に3基4基が、境内周辺に集結する様は壮観であった。また、木之元のダンジリの入場時には、遠来ということもあって大きな喝采で今も迎えられる。昔は、東久保からも獅子舞や神輿で参加していたという。宵宮の呼び物は、にわか(寸劇)の競演で、有名な芝居の1こまを面白おかしく演じて、頓知の利いた落ちで観衆を笑わせたものである。名塩探史会