第九篇 間の宿

間の宿

江戸時代、旅籠は駅所の所在地に設けられるのが原則であった。しかし、駅所間の距離が長い場合は、間の宿を置くことが許された。名塩を通過する丹波街道では、生瀬~道場川原(神鉄道場南口附近)の間は3里(12㌔)以上もあるため、中間にある旅籠は、結構繁盛したようである。明治8年の絵図面に挙げられた東久保の旅籠には、菱屋、山口屋、三田屋、丹波屋、因幡屋、但馬屋、鴻池屋、けぶた屋、などがならぶ。ほとんどが百姓との兼業であったらしい。牛宿を兼ねた宿や、茶店を併設した宿もあった。駅所の旅籠に比べて宿賃が安いので、荷牛引き(牛の背に荷物を乗せて運ぶ)の人や、雑貨商の人がよく利用した。淡河や吉川あたりからの伊勢講や、本願寺へのお礼参りの人達の定宿にもなっていた。大きな宿では、カケンボと呼ばれる駕篭かき人足を何人か常雇いして、お客をさばいていたが、客が立てこむと、もぐりの駕籠かきが客を引いて、道中わざと駕籠を揺すり、祝儀をくすねる者もあったらしい。丹波屋の庭先は、米相場の取次所にもなっていたという。旗振り山からの合図によるらしいが、その方法については判っていない。名塩の宿には、かじま、桔梗屋、八幡屋、山城屋、馬場儀、中屋、嘉右衛門,きへじ、西条が、鐘場には今出屋。木之元には木元屋、井筒屋、川口屋、牛宿の米庄があった。牛宿は、近年まで面影を残していたが、今は取り壊されてなくなっている。

名塩探史会